Schumann のピアノ曲の魅力(後編)- - - 良くある誤解(?) (98/4/21 記)
 

この文章は、Schumann のピアノ曲の魅力(その1)の続編です。
まだ読んでいない人は、先に、そちらを読んでください。

 

Schumann の場合、単純な和音ほど、響かせ方を考えなければ、曲の組み立てに失敗する。 一見、単調にみえるリズムや和音ほど、用心が必要だ。 ここを乗りなければ、Schumann の美しいファンタジー・イリュージョンのピアノ曲の世界には出会えない。

 

上の断章は、「教科書通りの紋切り型の和声を臆面もなく使う。」と「リズムが単調でしつこい。技巧も単調でしつこい。」という批判に対する私なりの答えです。 論より証拠なので、先のSchumann のピアノ曲の魅力(その1)と同じように、MIDI ファイルを使いながら、解説していきたいと思います。

 

example (2 K)
上の楽譜 Ex. 2 を、読んでみてください。
何の変哲もない、ただの和音の羅列に見えます。 これを何も考えずに、ごくごく普通にひけば、右の MIDI ファイルのような感じになるでしょう。 なんか小学生が、ただただ鍵盤を叩いているみたいですねぇ。
先の MIDI ファイルに若干の変化をつけてみましょう。
和音の一番上の音を基準として、和音の一番下の音は若干ボリュームを上げることにしましょう。 そのかわり、和音の内側にある音(内声部)のボリュームを絞り、さらに一拍目を強く、三拍目を少し強めにしてみます。 こうすると、右の MIDI ファイルのように聞こえます。 先のファイルに比べると、かなり落ち着いて聞こえます。 クラシックらしい響き方に、変わってきたのがわかりますよね。
また違うパターンを考えてみましょう。
今度は、和音の内側にある音(内声部)を基準として、和音の和音の一番上の音は若干ボリュームを上げることにしましょう。 そのかわり、一番下の音のボリュームを絞ってみました。 さらに、アクセントの置き方を、2・4拍目においてみました。 直前のファイルと聴き比べれば、同じ音を使っているとは思えないぐらい、聞こえ方が変わります。 どちらかというと、クラシックには縁がなさそうな響き方ですね。
さらに、違うパターンを考えてみましょう。
とにかくいじってみましたので、Joke だと思って聴いてみてください(というよりも、これこそが、ここの MIDI ファイルの目的なのです!)。 どうですか? どこかで聴いたことがあるような気がしませんか? あるはずですよね。

ここまで、聴いてくれば、鋭いあなたは、もうお気づきでしょう。 我楽多(がらくた)箱の「SCHUMANN の楽器って?」に書いたように、Schumann の一番大好きな楽器は、「頭(頭脳)」です。 先の MIDI ファイルの例でも、何の変哲もない和音から、おなじみのメロディが浮かんできましたね。 Schumann の曲には、これと同じように、単純な和声の中に、過去のメロディが潜んでいることがあります。 そこに気がつけるかどうかで、曲のイメージが、ずいぶん変わってきます。 さっそく、簡単な例をあげてみましょう。

Symphonische Et&uumlden Variation II (6 K)

上の Ex. 3 の楽譜は、交響的練習曲( Symphonische Etüden op. 13 )より、変奏2( Variation II )の最初の部分です。 赤丸で囲んだ左手のベースの部分だけを読んでみてください。 どこかで聴いたことがありませんか。 これは、下の Ex. 4 の楽譜に示している、同曲のテーマの出だしのメロディですね。 ともすると、Ex. 3 の変奏の方は、右手のメロディに心を奪われがちですが、低音にも隠れたメロディラインが入っているわけです。 内声部は、単純な音の組み合わせのように見えますが、この隠れたメロディラインと右手の本来のメロディラインとがけんかをしないように、音が選ばれているわけです。

Symphonische Et&uumlden VaThema (4 K)

一見、単調なリズムや和声が続いているように見えても、その中に秘められた透かし絵のような緻密な下部構造を見いだせないと、Schumann の音楽は、退屈で、辟易する音楽に数えられることになるでしょう。 その意味で、こういうところに気がついていない演奏は、私にとっては、やはり評価外です。 私からすると、楽譜の読みが足りないわけですから・・・。 (前にも書きましたが、私の意見を他人に押し付ける気はありません。) 先に上げたような、「教科書通りの紋切り型の和声を臆面もなく使う。」とか「リズムが単調でしつこい。技巧も単調でしつこい。」といった批判は、楽譜の読みが足りないから出てくるのだと思います。 Bach をそんなふうに批判する人はいないと思います・・・。(Schumann で使われている技法は、Bach のカノンのより複雑な形での提示だと思います。)

私は、Schumann のピアノ曲を MIDI で提供するために、一音一音、打ち込みながら、楽譜とにらめっこをしています。 残念ながら、今では、もう正確に弾けません。 楽譜を見ているうちに、そういった透かし絵を見つけて、一人、ほくそえんでいます。 もっとも、時には、複数のテーマの絡み合いの度合いが過ぎて、私の能力では、収拾不能になることさえありますが。 皆さんも、私と一緒に、透かし絵捜しの旅に出ませんか。

後書きにかえて

Robert Schumann のピアノ曲の魅力といえば、「まれにみる美しい旋律」とか、「破滅寸前の美の美しさ」とか、「感情表出に優れたメロディ」とか・・・ 皆さんの中にも、 「Schumann のピアノ曲の魅力」なんて題名をみて、そういう美しい旋律についての記事を期待なさっていたかもしれませんね。

Schumann の評論といえば、初期ロマン派の作曲家という表書きがつけられて、後はその表書きの表面的なイメージにおんぶに抱っこといった評論が多すぎるように思います。 確かに、そういう美しさもあるでしょう。 初期ロマン派の作曲家に分類されるのは事実だし、近代ロマン派の文学の影響を受けているのも事実です。 しかし、ロマン派という言葉のイメージでのみ、Schumann の音楽を理解しようという評論・批判には、納得しがたいものがあります。 確かに、Schumann のピアノ曲には、独特の美しいメロディがちりばめられています。 しかし、その美しいメロディは、Robert だけの特質であって、ロマン派の作曲家の共通点ではないと思います。 そのメロディを、縁の下で支えているのが、ここで示してきた、緻密で、計算し尽くされた下部構造なのだと、私は考えます。 さらに言えば、その下部構造そのものが、Schumann の音楽の、もうひとつの特徴だと私は思っています。

もうひとつ、私の気持ちを付け加えておきましょう。 Clara との大恋愛が、Robert のピアノ曲に大きな影響をあたえているのは確かです。 Robert のピアノ曲作品を、十二分に表現するためには、確かに Clara のようなビルトオーゾ・ピアニストの力が必要だったでしょう。 Clara が、Robert の頭の中にある音楽を具現化しうる最初のピアニストだったのも間違いないでしょう。 その意味で、Robert のピアノ作品は、Clara との二人三脚の中で生まれて来たとも言えるです。 決して、その恋愛の喜びの感情を、感情のおもむくままに、音楽に移しかえたのではないと思います。 Robert の作品を、甘いロマンや恋愛とすりかえられては困ります。 ここに書き記してきたように、でき上がってきた作品は、作成過程の作曲者の個人的境遇(Clara との大恋愛+恋人との共同作業)とはうらはらに、非常に緻密な論理思考の積み重ねが土台にしっかり座っています。 この土台は、J. S. Bach の曲の詳細な検討・研究の成果だと思います。 その堅固な土台に上で、はじめて、自由奔放で、天才的ひらめきとも言うべきメロディが、美しく響くのだと、私は考えています。 とにかく、私のなかでは、Schumann の音楽の、天才的ともいえる「ロマンティックな感情表現」は、Schumann の計算づくの演出の効果なのです。 もちろん、そのような演出が行えること自体が、天賦の才能だと言わざるを得ませんが・・・。 そして、19 世紀を代表するビルトオーゾ・ピアニストの Clara が、Robert に添い遂げてくれたとは、なんて幸運なことだったのでしょうか。 彼女なしには、Robert の頭の中に浮かんだ音楽を、確実に推敲することは不可能でしょうから。 まさに、この意味おいてのみ、確かに Robert の音楽は、二人の愛の結晶であるといえるのでしょう。

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