音楽派 AUDIO 愛好家宣言 (99/5/2 記)
 

〜〜〜 オーディオ評論家への決別状 〜〜〜

音楽派オーディオ論を読む前に、ちょっとした質問を。

質問: あなたがこれまでにオーディオにかけてきた費用と LP/CD などのソフトにかけた費用は、どちらが多いですか? LP/CD は、一律に、一枚 2000 円として計算してください。

  1.  LP/CD にかけた費用が多い。
    あなたは、間違いなく、私のお仲間ですね。 共感のメールをお待ちしております。

  2.  どちらも同じぐらい。
    オーディオの楽しみ方のひとつの選択枝が、このページにあります。 ご意見をお待ちしております。

  3.  オーディオにかけた費用が多い。
    オーディオの楽しみ方は、ひとそれぞれです。 このページを読むと、頭にくるかもしれません。 それでもよろしければ、先をお読みください。 でも、反論大歓迎! メール掲示板をお待ちしております。

いかがでしたでしょうか。 私の場合は、おおざっぱに考えて、LP/CD にかけてきた費用がオーディオにかけてきた費用の倍以上です。

オーディオの楽しみ方は、さまざまです。 音楽を聴くのではなく、音に身をゆだねるような聞き方も楽しいでしょう。 私自身も、そういう楽しみ方をしていた時期がありました。 しかしながら、音楽愛好家の方々から、オーディオ評論家の言動や出している音を毛嫌いされているのも事実です。 オーディオという趣味が長期衰退傾向にあるのは、ご存じのことでしょう。 音楽愛好家は、オーディオという趣味に一番近いところにいると思いますが、そういった人々から見放されているのが、オーディオ(とオーディオ評論家)の現状だと思うのです。 オーディオの長期衰退傾向の一因は、この趣味に入門してくる音楽愛好家を引き込めないことにあるのだと思います。 実例をあげましょう。

 

 音楽はその字の通り、音を楽しむことから始まる。その音が気に入らないときには、すでにその重要な要素の一つを外したことになる。サントリーホールは、その点、先ず「楽しい音を出す」ことにおいて小生は最も好んでおり、オーケストラをこのホール以外に聴きに行く気にはならない。

中略

サントリーホールの2階前方席でのオーディオ的評価は、 最後期の出来の良いLPという感じである。しかし、CDの高分解能には少し距離がある。  では、どこまで楽器に近付けばCDのような明快な音が聴けるかとなると、ステージ上の補助マイク、ないしは指揮者の上のメインマイクの場所であろう。 現在の録音は決して客席中央の音を意図しているわけではなく、再生装置の弱点をカバーする意味も含めて、相当数の補助マイクを駆使して明快な音をとる。ここが実は「原音再生」を標榜するときに一つの問題点となる。すなわち、録音された信号を原音再生指向の装置で再生してみせると「客席の音とは違う」という反応である。 したがって、再生音楽との付合いが長い方は、極力ステージに近い席を取らなければ、失望する。上野の文化会館ではそれでも物足りない思いをすることがある。  渋谷のオーチャードホールはその点多少席が離れていても音の分離は良い が、ここは音が面白くない。  「面白くなければ小説ではない。音が楽しくなければ音楽ではない」というのが小生の、言われるまでもない俗っぽい信念で、もう、これは死ぬまで変わらない。そして、この信念の上に30年を越すリスニングルームの設計技法がある。

加銅鉄平氏の辛口オーディオコラムより

上記のコラムを読んで、私は唖然とした。 音や響きのことを考えたときに、「ステージ上の補助マイク、ないしは指揮者の上のメインマイクの場所」を、最良の場所と考える音楽愛好家はいないだろう。 こういうことを考えているオーディオ評論家の意見を聞いてオーディオ装置を用意したら、不満たらたらになることは間違いない。 まず、音楽に対する基本的な考え方が、音楽愛好家にとっては異質だ。 「音楽はその字の通り、音を楽しむことから始まる」とのことだが、音楽の楽しみの三要素は、旋律とリズムと音色である。 「貧弱なラジオの音であっても、音楽を楽しむことはできるが、よりよい装置なら、いっそう音楽を楽しめる」のが、音楽派 AUDIO 愛好家の考え方だ。

引用を読んで、おわかりいただけるように、加銅氏にとっては、ステージ上の補助マイクの位置、ないしは指揮者の上のメインマイクの場所で、オーケストラの演奏を聞くのが、原音であり、明解な音ということのようだ。 氏がお書きになられたように、「原音再生指向の装置で再生してみせると「客席の音とは違う」という反応」がでてくるのは、あまりにも当然だ。 少なくとも私は、そんなところでオーケストラを鑑賞する気にはなれない。 響きに乏しく、ハーモニーの溶け合いも感じられないから。 コンサートホールで演奏なされた方は良くおわかりのことだが、ふだん練習しているように、自分が出している音を確認しながら弾くことはできない。 会場が広いので音が拡散して普段とは明らかに異なったように聞こえたり、逆に響きが豊穣で普段は聞こえにくい音が大きく聞こえたりするのだ。 演奏している壇上ではうまく聞こえなくとも、客席側では、直接音と間接音がうまく交わり、ちょうど良い音に聞こえる。 マイクを近くにおくのは、直接音を捕らえるためで、それだけで CD/LP が制作されるわけではない。 加銅氏のいう「ステージ上の補助マイクの位置、ないしは指揮者の上のメインマイクの場所」が、ワンポイント録音の場合には、選択されないことを考えると、加銅氏のご意見は、(私のような音楽愛好家には)彼の好みだとしか理解できない。 コンサートに行って、演奏形態(管弦楽、器楽曲、室内楽、歌曲)によって、席を変えないと、良い響きが得られないのは、クラシック音楽愛好家には常識だが、オーディオ評論家の視点は別の方向をむいているらしい。

オーディオが趣味である以上、いろいろな楽しみ方があるのはいうまでもない。 先の加銅氏の楽しみ方も、その一例であろう。 しかし、音楽愛好家がオーディオ入門にあたって、加銅氏の意見をまるごと信用したら、音楽を楽しめる環境ができあがるだろうか? 彼自身が述べているように、それは NO であろうし、悲劇でもある。 ここで、加銅氏の文章をとりあげたのは、彼を非難する目的ではない。 現在のオーディオ評論家およびオーディオ雑誌にありがちな態度が、音楽愛好家にとって、既に、受け入れらない壁になっていることを端的に示す材料であったから、ここでとりあげたわけだ。

もちろん、すべてのオーディオ評論家が、私と異なる視点で、評論をしているわけではない。 故・瀬川冬樹氏のオーディオ評論には、現在でも、私は心酔している。 優れた工業デザイナーであもあった氏は、音楽を、音としてではなく、音楽として楽しむことを良く理解していた希有な評論家であった。 オーディオフェアなどで、オーディオ評論家のおすすめ CD/LP などを試聴する機会を得ても、音は聞けても音楽に心酔できることは、まずない。 いわゆる優秀録音盤であって、好演奏の録音ではないからだ。

先に、「貧弱なラジオの音であっても、音楽を楽しむことはできるが、よりよい装置なら、いっそう音楽を楽しめるのが、音楽派 AUDIO 愛好家の考え方だ」と述べた。 私の場合は、良いオーディオ装置を使うことによって、音楽の表情というか、演奏のニュアンスがわかりやすくなることが何より大切だ。 同じ楽器を使っても、演奏家が異なれば、出てくる音が変わってくるわけだが、そういう違いは、ある程度以上の装置を選ばなければ、私には聞き取れない。 私の場合、特に気になるのは、自分が昔、習っていたピアノの音だ。 ピアノの音は、同じ演奏者が弾いても、キータッチを変える(弾き方を変える)ことで、音の質感が変わってくる。 こういう違いは、良質なオーディオ装置でないと、聴きることはできない。 ここに、私がオーディオにこだわる大きな理由がある。 そして、私がオーディオ装置を取捨選択してきた手法は、オーディオ雑誌・オーディオ評論家の手法と、取捨選択の基準という点で、大きく異なっているのである。 私は、ここにも音楽愛好家とオーディオ愛好家との大きな乖離をみる。

この「音楽派 AUDIO 論」のコーナーでは、クラシック音楽ファンのための実践的 AUDIO 論を掲載していきたいと思います。 ご期待ください。

(to be continued...)

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